産業組合学校と私
副島 啓治
私は、山梨県知事(当時は知事が各都道府県中央会支部長)の推薦で、産業組合中央会付属産業組合学校に、昭和10年4月1日第10期生として30名とともに入学した。学校は、校長が産業組合中央会会頭志立鉄次郎・学監佐藤寛治・主事徳永清次先生に、第5期卒の江崎書記(先輩)で構成されていた。
学校及び教室は、有楽町の農林中金ビル5階。今日の第一生命ビルは空き地であり、建物は無かった、従って5階の屋上から宮城がよく見えた、登校すると屋上に上がり、宮城遥拝をした。寮は、東京府北多摩郡千歳船橋817番地。小田急線経堂駅から西に15分ほど歩くと、雑木林に囲まれた道路に沿って、立志舎があった。
「立志舎」(南側から・昭和10年) |
寮は元中央会会頭山梨県人の志村源太郎先生が、私財を投じ建築された、木造2階建コの宇型で南向きだった。窓からの眺めは、雑木林の稜線に、富士山が肇へ素晴らしい眺めであり、静かな学び舎であった。居室は六畳間の和室に座机が2個の2人1部屋で、私は茨城県の関弘君と同室になった。北向きは好ましくなかったが満足できた。朝食は、徳永先生が同席し、座敷食堂で食事を共にした。道路を隔てて近くに八幡宮があり、日曜日には学生一同揃って、境内を掃き掃除をしていた。近隣は雑木林に囲まれ内海雑貨店の他数建の農家があり、竹林では5月頃筍が収穫されて、我々の食膳に筍億が供された。各自の部屋は自分で整理整頓するが、廊下・階段などは久松の小母さんとよく太ったお美代さんが、炊事の合間に蹄寓にしていた。
八幡社日曜朝の行事(第10期生・昭和10年)
学校の講師には、千石興太郎・宮部一郎・宮城孝治・金井満など産業組合中央会の各部長・役員が夫々専門講座を担当された。行政学は、行政調査会岡野先生、工業概論は都立工業学校の校長が担当された。
特別講師に香川豊彦先生が居られ、海外消費組合の講義をなされた。中野練合組合病院は、香川先生が設立されて4年目頃で、創立のお話や病院視察が結成された。(現在、私は中野練合病院の評議員)信用組合論の佐藤寛治先生は、東京帝国大学農学部長、産業組合法は農林省産業組合課長、金融論は大蔵省庶民金融課長など、どの先生もその筋では日本一の権威者ばかり。田舎者の学生は極度に緊張したものである。
産業組合拡充五ヵ年計画が全国的に推進され、日本商事会議所渡辺会頭が旗頭となり、全国的に反産業組合運動が展開された時代である。昭和11年2月26日早朝2・26事件が勃発、戒厳令が布かれ3日間立志舎に篭城する、と言う歴史的大事件にも際会した。
学生は等しく,各地産業組合の組合長・村長の倖など、卒業後は村に帰って、地域の指導者を負わなくてはならない家庭の後継者達が多かった。従って、産業組合闘士を強く認識していた。また組合指導者たちも大きく期待されていたので、学生の意識は単なる学生ではなかった。
私は卒業するや、郷里山梨県東八代郡富士見村に帰り、設立直後の、富士見村信用販売購買利用組合に無報酬で6ケ月勤務奉仕した。まもなく山梨県信用組合連合会からお招きがあり、職員となった。山梨県信連は、会長・専務理事に主事2名から構成されていた。その一人に第2期卒の関本温先輩が居られ、主事補1名と書記の私で組員6名の連合会であった。私の仕事は、破れた紙幣を和紙で丁寧に裏貼りする、書類を綴じる「こより」作成などから始まった。窓口では、定期預金一金五万円也と毛筆で、書かされることが大儀であった。
入職して2年目、昭和12年12月始めに、突然母校の徳永先生が山梨県信連に来られた。2階の会長室で会長と対談され、私を会長室に呼ばれた。落合周平会長は「突然の事であるが、母校で先輩職員傳法谷主事補(第1期卒)が陸軍予備少尉で応召された。代わりにお前に上京して欲しいと徳永先生は要請されている。君は上京し、産業組合中央会の学校勤務をしなさ」ということが告げられた。正に晴天の霹靂であり、至上命令で、産業組合中央会付属産業組合学校勤務となった。
昭和13年1月早々上京し、第12期の第3学期から立志舎の住人となった。
12期生を卒業させ、13期生を迎え2学期を終わろうとした、昭和13年12月10日、今度は私が現役兵として入営することになり、私の第一次学校勤務は短く終わった。
左から大竹書記助手・佐藤学監・徳永主事 (昭和12年) |
「ラジオ体操」(昭和12年・農林中金ビル屋上) 奥の工事中ビルは第一生命ビル |
12期生(昭和12年・産業組合中央大会会場にて) |
私は郷土部隊である、甲府歩兵第49連隊に12月10日、村人達の盛大な見送りを受け、勝ち戦の支那事変最中の入営であった。同年12月23日満州派遣のため、神戸港出港、同12月31日満州国黒竜江省神武屯着。歩兵49連隊第3機関銃中隊に編入され、酷寒零下30度の最北の地で昭和14年の元日を迎え、国境警備の任務に着いた。
幹部候補生を志願甲種幹部候補生として、昭和14年11月奉天の予備士官学校に入学、15年6月卒業して見習士官となる。同年11月2日陸軍少尉に任官。少尉・中尉の在職勤務は、大隊本部付及び副官として、作戦築城・教育訓練など幕僚業務に終始した。昭和17年11月1日付、近衛歩兵第4連隊転属命令が下り、東京に帰還し在満州5年で召集解除となった。
召集解除と同時に職場に復帰した。職場は5年の間に、名称も変わり、全国農業会、戦時対策部厚生課・課長は黒川泰一氏であった。農業会学校は、青木一己氏が学校主事で居られた。私は厚生課勤務のまま、兼務で、立志舎に入居した。18期生を卒業させ、19期生を迎え入れる業務に従事した。この頃立志舎の生活は、食糧難が最大の悩みであり、配給食糧以外に、食料をいかに補充するかが管理者の悩みの種であった。学生達も多摩川の堤防などで食べられる野草を真剣に採取するなど大変貧困な時代であった。
戦局は日に厳しくなり、昭和19年6月19日16時、全国農業会東部訓練所(千葉県成田)に於いて、再召集の通知を受ける。19期生の諸君と田植え作業援助に赴いていた。車田所長の祝辞を得て帰京、学校主事の青木一己先生に挨拶、19時青木先生と学生一同からの壮行会が、立志舎で開催された。翌20日には中央農業会壮行会を受けて、18時中央線新宿駅発で山梨の自宅に帰る。6月.22日19期生数人に将校行李を担いで戴き、溝の口の補充部隊まで送って頂いた。今度こそ皆さんと最後のお別れと自分では覚悟した。
連隊本部が編成され、私は連隊本部の幕僚(作戦・情報担当)の任務が下されて、政木連隊長の指揮下にはいった。昭和19年7月1日目的地小笠原諸島母島に向け、出動命令が下された。海防艦1隻輸送船5隻の船団は、厳戒状況で東京湾から太平洋を南下した。潜水艦対応・空襲に対する防空演習など、岡に上がった河童の逆で、陸軍将兵は、海では死にたくない、神頼みの11日を要して7月11日無事母島に上陸した。
母島には、既に歩兵2ケ大隊が駐留しており、この部隊を吸収し更に海軍の兵力3、000人も指揮下に入れ、兵力7,000人、これを統合指揮する小笠原兵団母島地区隊本部となったので、私の任務は重大さが倍加し、私は、身の引き締まる思いがした。満州の現役部隊の精鋭とはまったく異なる、雑将兵、食料・弾薬の乏しい、21平方キロの母島を如何に守るか。陣地構築と作戦計画は至難な業務であり、それが私の任務であった。
地区部隊長の政木大佐は、優秀な武将であり、人格者である事が心の支えであった。20年2月15日最悪の時が来た。我が小笠原兵団長栗林中将が直接指揮を執る、母島南1,200キロの硫黄島に、米軍艦隊の接近上陸作戦が開始される。2月16日栗林師団長は隷下部隊に臨戦態勢を命じ、母島の陸海軍は甲配備に着く。
情報主任の私は、右に通信隊長・左に暗号室長の壕内情報室の主となる。刻々に送られてくる、硫黄島の戦況と参謀本部・海軍軍令部の情報傍受による、情報整理の業務が仕事であり、上陸開始から48時間睡眠をとる暇も無く勤務が続行された。敵兵力61、000人我が兵力20、933人の死闘は、米軍の計画「3日で占領」を、30日の死守により、敵に28、000人の死傷者の打撃を与え、3月16日、栗林中将の陸軍参謀綽長・海軍軍令部長への最後の報告並び辞世の電文で24、000人玉砕の終末となる。(この間の詳しい状況は「私の陣中日記」平成4年発刊に記す。省略)20年8月15日の終戦の詔勅は、母島で聞き、9月16日米進駐軍司令官との連絡将校を拝命した私は、駆逐艦の米軍司令官の下に白旗を掲げ、単独で接見命令を受領する。その後約6ケ月の間に武装解除8,000人の陸海軍将兵を本土への輸送計画を立てこれにより帰還させ、母島を無人島にして、米軍200人日本軍200人相対する中で、日章旗を降ろし、星条旗を掲げる、占領式を済ませた。
米軍海兵隊リキシイー大佐は「只今国旗を降ろされた、「諸君の心情を深く推察同情する、独立国には、最強の陸海空の軍隊が必要である、やがて何時の日か、諸君達が此の地に再び国旗を帯群立てなくてはならない、その日の一日も早い事を祈ります」。この挨拶は全く感動させられた。
21年1月9日小笠原から帰還、久里浜で陸軍大尉の軍服を脱いだのである。敗残兵の惨めな姿で見た横浜・東京の焼け野原の状況には、「生き残った俺達が、此の復興を帰さなくてはならない」決意を新たにした。
幸いに、下高井戸の下宿にしていた、元立志舎の小母さん久松家は戦災を免れ、上京しての生活の場は確保できた。ところが学校の徳永清次先生が、早速私の帰還を知り山梨の自宅に来られ、学校の再建を図り、21期生を迎え入れなくてはならないので、1日も早く上京されたい、と要請をされ、休養の暇なく上京した。
学校再建は、文部省に通い学制の代わった中で、特殊専門学校令による専門学校の再建であった。学校事務所は、上野松坂屋の焼けビルが農林中金であり、その片隅の小部屋が学校本部であり,中金の職員と同居した。前同窓会長西山氏等21期生の入学式まで学校にお手伝いして、本籍の中央会厚生課に復帰した。
同窓会長森晋様からも、学校主事として学校の再建に協力するよう要請されたが、既に私は国土再建の直接行動に挺身する覚悟を決めていたので、昭和22年1月で中央会を退職現在の建設業に転職したのであった。
建築塗装業と言う、職人社会に白紙で飛び込む勇気は、30歳を転機に新しい白紙の社会で、第2の人生に挑戦して見たいとの希望であったのである。昭和22年2月副島塗装店に転職、23年4月には日本塗装工業会の設立発起人の1人となり、新しい塗装業界の再建に参加。協同組合運動の10年の経験が、全国団体の組織化に大きく役立ち、他の専門工事業界とは趣の異なる、全国組織の樹立に寄与して、初代理事会の一員に列せられた。老檜串親方集の中に、若干30歳の私が参加できたのも、養父副島甚蔵が私企業を法人化と共に、私を代表者に指名されたからである。
転職して2年目に、企業代表・全国団体及び地域団体の執行役員に就任したのも、天の時・地の利を得て、人の和に恵まれたからであり、私は幸運の人間であった。
今年は社団法人日本塗装工業会創設60周年記念式を準備している。創設当時からの役員は、全国でただ1人となり卒寿(90歳)の相談役で迎えている。
組合学校もその名が消え、時代の変化を痛感する一人である。然し企業括動やその組織は人の活動であり、此の教育訓練活動こそ新しい社会造りの原動力ではないだろうか。
幸いにも、私の弟子(職業訓練校卒業3年)は198名を数え、今年は第一の弟子が、社団法人日本塗装工業会の副会長就任がきまっている。