中央協同組合学園校友会

交流のひろば

死闘

町田重光(短大5期卒・東京支部)

 「死闘」と言うと、少々オーバーなタイトルであるが、第43回青梅マラソン(30Km)の話である。青梅マラソンは、例年、2月の第3日曜日に開催されていたが、一昨年、東京マラソンが始まり、そこに入り込んで来たため、「青梅」は、遠慮して、第1週開催になっていた。ところが、「東京」が今年から3月開催に変わり、「青梅」は、恒例の2月の第3日曜日に戻った。
 
 私が「青梅」を走るのは15回目であるが、いつも心配するのは、寒さである。昨年の大会は、雪で中止になっている。そこまで行かなくとも、10度C以下が当たり前である。それが今年は、14度Cと暖かい。ランニングシャツでも少しも寒くないし、手袋も要らない11時50分、19,803人がスタートした。スターターは、北京オリンピック400mリレー銅メダルのアンカー、朝原宣治さん。みんなが手を振りながら行くのでなかなか前に進まない。
 
 「死闘」は、21Km 地点で始まった。「青梅」に向けての練習中に痛みを感じ、湿布してケアしていた左足ふくらはぎに痛みが走った。川井までの長い上りを終え、折り返しをずっと下って来て、急な上り坂にさしかかる所である。ゴールまでまだ9Kmもある。足をさすってみる。これは無理だ、途中棄権するほかないと思いながら歩き出した。「この坂を上りきれば、あとは長い下りだよ。がんばれ」という声援が聞こえた。下りになったところでゆっくり走ってみた。これ以上痛みがひどくならないよう気をつけながら、ゆっくりゆっくり走る。そして、少し歩く。また、走る。この繰り返しである。
 
 給水エイドでは、ふくらはぎに水を掛けて冷やした。25Kmまで来た。3時間40分の制限時間まであと40分である。1Kmを8分以内で走れば、完走できる。沿道からも「歩かなければ、完走できるよ」という声援が聞こえる。
 
 ここまできたら、途中棄権など考えず、最後までがんばろうと思い直した。ここからゴールまで「歩かなければ、完走できるよ」という声援に何度励まされたことか。私は、走り・歩き・走った。あと4Km、あと3Km、あと2Kmと。幸い足は痛みをこらえてくれている。ついに、あと1Kmのところまで来た。「あと信号3つだよ」の声に、遠くを眺めると3つ目の信号も見える。ようやく完走を確信することが出来た。3つ目の信号を右折すると目の前にゴールのゲートが待っていた。ゴールイン。「死闘」は終わった。
 
 「流れる星は生きている」という引き揚げの体験記を小説に書いた藤原ていさんは、第二次大戦時、観象台に勤務する夫と満州に住んでいた。終戦直前の昭和20年8月9日、ロシアの侵攻から逃れるため、夫を残したまま、6歳・3歳の男の子と生後1カ月の女の子の3人を連れて脱出し、終戦を経て、38度線を越え日本に引き揚げて来た。着の身着のままで、いくつもの山を越え、いくつもの川を渡り、ひもじさと闘い、寒さと闘い、病気と闘い、生命の危機に幾度となくあった。博多にたどり着いたのは、昭和21年9月12日だった。
 
 これこそ「死闘」である。わたしの青梅マラソンは、生命を賭したものでもなく、途中棄権したとしてもどうということのないものである。しかし、ひとつの闘いではあった。翌日の新聞によると、63歳の男性がゴール目前の29Km地点・青梅市役所前で心肺停止状態となり、AED(自動体外式除細動器)の措置で蘇生したとあった。危機一髪だった。
 
 今、世の中は、百年に一度といわれる大不況に見舞われている。職を失い路頭に迷う人たちにとっては、まさに「死闘」を強いられている。この「死闘」を乗り越えるには、自らの強い意志とともに、応援してくれる人、見守ってくれる人、そしていざという時には手を貸してくれる人が必要であることは、「青梅」を持ち出すまでもなく、論を待たないことである。